ツグトヨのブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS ジョージは『ロックは、戦争や原発を止め、社会をも変える事が出来る力だ』という幻想を抱かせてくれた。

<<   作成日時 : 2013/05/24 14:08   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 8 / トラックバック 0 / コメント 0

画像

【惨劇のバングラデシュに一筋の光を投げかけた、前例のないべネフィット・コンサート】

第二次世界大戦の終焉と共に、欧米・日本の植民地だった国々が独立を果たしていた。

1947年にイギリスの植民地支配を終えたヒンドゥー教国家・インドと、イスラム教徒のパキスタン。

信仰する宗教を基にした国境の樹立だった為、パキスタンは地図上でもインドの東西に千キロ以上離れた2つの国土を持つ、特殊な国だった。

国の設立当初から、イギリスの利権を受け継ぎ、高級官僚職のほとんどを独占したパンジャブ人主体の西パキスタンは、国家歳入の大半を使い、西側の工業発展・農地改革を進め、極めて早い時期からパキスタン西側と、ベンガル人主体の東側では極端な経済格差が生まれ、激しい弾圧が始まった。

そして、米ソ冷戦の中、アメリカによって、共産圏封じ込めの最前線として、地政学上重要地域にされたパキスタンには、西側の資本主義諸国から多額の援助金が入るようになり、西パキスタンの軍隊・官僚の腐敗と、東パキスタンへの植民地的支配がより強力化した。

貧富の差が拡大する中、パキスタン人の多くが東側のベンガル人だった為、1970年の総選挙では東西の経済格差の改正や、東パキスタンの完全自治を掲げた〈アワミ連盟〉が圧勝し、国会の単独過半数を占めることになった。

しかし、当時のヤヒヤー政権がこれを無視し、独裁政治を続ける。

1971年3月25日、西パキスタンによる東側への武力攻撃が開始され、翌日、東パキスタンはバングラデシュとして独立を宣言し、泥沼の内戦に突入した。

アメリカは当然の如く西パキスタンを支援したが、イギリスからの独立以来、パキスタンと対立を続けていたインドの指導者ガンジーは東パキスタンを支援すべく、ソ連と条約を結んで、米国に衝撃を与えた。

真冬の12月16日、インド軍の圧倒的な攻勢により、バングラデシュの首都となるダッカを攻略し、バングラデシュの実質的独立が実現した。

この10ヶ月に及ぶ戦争の間に、パキスタン軍とその地元での協力者の残虐な行為から逃れる為、バングラデシュの多くの人々が難民になって、国境を開いた隣国インドに逃げ移った。

パキスタン軍の弾圧開始から1ヶ月の間だけで百万人近い難民が生まれた。

結果的にバングラデシュ新政府樹立までの間に、インド政府が国連に伝えた数字では年末までに一千万人に達したとされている。

この大量の難民の問題に、豪雨がもたらした洪水の被害が重なって、何百万人もの人々が飢餓に直面し、多くの抵抗力のない子供達が餓死するなど、難民の生命が脅かされる惨事となったのである。

(ベトナム戦争を含め、いつの時代も共産圏〈現在はテロ〉との対立を大義名分にして、常にアメリカは世界中で戦争を仕掛けている)


その惨劇に心を痛めたのが、世界的シタール奏者でインド国籍のベンガル人、ラヴィ・シャンカールだった。

「東パキスタンが西パキスタン政府と問題を抱え、分離独立して国名をバングラデシュにしようとしていた時期だった。政治問題から発展し、やがて戦争が始まった。私達が最も心配していたのは、その土地にはたくさんの親戚が住んでいて、彼らは難民になった。本当に多くの子供達が…そこで起きている全てが、私にはとてもつらいことだった。そこで、私はベネフィット・ショウをやって2〜3万ドルでも集めて、彼ら難民に送れるかも知れないと計画していた」

「たまたま友人のジョージ・ハリスンがロサンゼルスにいて、会うことが出来た。私は彼にバングラデシュの惨状について説明したら、『その程度(2〜3万ドル)では何にもならないよ。もっと、大掛かりなやつをやろう』と言ってくれた。直ぐにジョージは電話をかけまくって、まるで魔法のようにマジソン・スクエア・ガーデンを押さえ、ボブ・ディランやエリック・クラプトンのような友人達の出演を決めてくれた。本当に魔法のようだった…また彼は〈バングラデシュ〉という曲を書いてくれた。そのおかげで、その国名は一晩で世界中に知られるようになった」

http://m.youtube.com/watch?client=mv-google&gl=JP&hl=ja&v=QHDr_vGorUA

ジョージは、6月に準備を開始、7月にシングル曲『バングラディッシュ』を発売、そして8月1日にコンサートを実現した。

『バングラデシュ/ジョージ・ハリスン』

悲しそうな目をして友達が訪ねてきたんだ

彼は「滅びる前に、救って欲しい」とぼくに頼む

ぼくに苦しさは理解できやしない

でも、何とかしなくっちゃいけないと思った

今度は、ぼくが君達に頼む

命を救いたい

手を貸してくれないか?

バングラデシュ
バングラデシュ

この名を憶えて欲しい
その為に、この名を繰り返し歌おう

そこでは多くの人々が飢えて死んでいる

本当の地獄だ

「絶望」とはこのことだと、ぼくは知った

手を貸してくれないか?

そして何より、分かって欲しいんだ

バングラデシュ
バングラデシュ

この名を憶えて欲しい
その為に、この名を繰り返し歌おう

彼らを救おう


1971年7月23日リリース・チャート成績/23位(アメリカ)、10位(イギリス)、47位 (日本)。

(バングラデシュを現在の東北・福島に置き換えて考えることも出来そうです)

この曲とそれに続く救済コンサートが、ジョージ・ハリスンの良心と、シャンカールへの友情から生まれたものであることは疑いもなかった。

こういった親善イヴェントを売名行為とか、独善的な自己満足と批判する向きは常にあるが、世界で最も有名で、最も愛されたグループの一員で、当時メンバーの中で最も成功していたジョージにとって、それ以上の知名度や世間からの認識など全く必要ではなかった。

また、それは人道主義に基づく行動だったが、決して政治と無縁な安全な行動ではなかった事は指摘すべき点だろう。

バングラデシュの人々を殺し、故国から追い立てたパキスタンの軍隊は、〈アメリカ政府の送った資金と兵器〉によって成立していたのである。

ベトナム戦争を泥沼化させ、多くの人々を殺し、武器を売りさばいた米国ニクソン政権にとって、同じようなバングラデシュでのパキスタン軍の非道な行為について、世界に広く知られて欲しくなかったに違いない。

それでも、ジョージは「僕らは何かをしなくちゃ、それも早急に」と、立ち上がった。

彼はそういった姿勢はジョン・レノンから学んだものと語っていた。

「ジョンは何かについて強く心に感じたら、とにかくそれをやった。それに向かっていく、『それをやるんだ』という姿勢さ」

(思い出されるのは、ジョン・レノンが70年代前半に反戦運動に関わった後、80年末に暗殺事件が起きたこと。そして、99年12月にジョージの自宅、フライアー・パークに何者かが不法侵入。ジョージは家族の安全を思い、男を取り押さえるも、刃物で数か所を刺され重傷となった。犯人はヘロイン中毒者で、ビートルズを悪魔と思っていたという。この事件は真っ先にジョンの射殺事件を連想させ、人々を震撼させた。)

1971年8月1日に行われた〈バングラデシュ難民救済コンサート〉は大成功を収め、入場券売上から24万3418ドルの小切手がバングラデシュ孤児救済基金としてユニセフに直ぐに送金された。

しかし、その後に大問題が発生した。

コンサートの模様を収録したアルバムの売上と、映画からの収益は最終的に約1350万もの金額をもたらすが、「非営利団体の主催でなかった」という理由で、米国の国税局が課税対象にみなし、税金の支払いを要求した。

さらに英国では、アップル・レコードが9年に及ぶ監査中で、至急に使われるはずのお金が動かせなくなってしまったのだ。

最終的にユニセフにお金が届いたのは、何と11年後だった。

ユニセフの調査によると、ジョージ達が寄付しようとした収益金が滞った11年の間に、バングラデシュでは800万人以上の子供達が栄養失調、または病気で死んだという。

そういった苦い後味を残した〈バングラデシュ孤児救済コンサート〉だったが、この先駆的な善意と失敗例が、80年代に行われたボブ・ゲルドフを中心にした「バンド・エイド〜ライブ・エイド 」へと繋がってゆく。

ボブが「ライブ・エイド」の開催にあたり、真っ先に助言を求めたのが、ジョージ・ハリスンだった。

ロック・ミュージシャンによる最初の大規模な親善イヴェント〈コンサート・フォー・バングラデシュ〉が行われた1971年頃の世界は、インターネット時代の現在とは、全く違っていた。

当時は世界の或る地域で悲劇が起こっていても、その実情は他の国々にまで伝えられなかった。

実のところ、バングラデシュの惨状はほとんど見過ごされていたのである。

或る一人のミュージシャンが曲を書き、コンサートを主催するまでは、国際政治の力関係の中で搾取され、絶望の底にあった人々にとって、それは『世界が自分達の状況に関心を持ってくれている』と知ることが出来た、文字通りの一筋の光だった。

ラヴィ・シャンカール
「ジョージのシングル〈バングラデシュ〉、私のシングル、コンサートの映画、アルバム、コンサートの入場料…全部を合計すればかなりの金額になるだろう。それでも、800万人近い難民にかかる金額を考えれば、大海原に一滴たらすようなものだ。でも、それが要点ではないんだ。これまでほとんどの人が知らず、感じていなかったこと〜バングラデシュで、このような惨事がどうして起こったのか〜について気づいたことだ。これは火を点けようとするみたいなものだ。その目的は達成できたと思う」

バングラデシュの首都ダッカに、独立戦争を記念する小さなミュージアムがある。

戦争で殺された300万人近いベンガル人の血まみれのシャツやサンダルなどが悲劇の証拠として展示されているのだが、その壁には共同墓所の地図と共に一枚のLPレコードのジャケットが飾られている。




追記
ジョージ・ハリスンは2001年11月29日、妻・オリヴィア、一人息子・ダニー、そしてラヴィ・シャンカールに看取られ、癌の転移により死去。

58歳だった。

〜ジョージの死後も、彼の慈愛は続いています〜

【アーティスト印税の全額が「ユニセフ・ジョージ・ハリスン基金」を通じユニセフ支援に】

http://www.google.com/gwt/x?gl=JP&hl=ja-JP&u=http://www.unicef.or.jp/osirase/back2005/0511_03.htm&client=ms-kddi-gws-jp&source=sg&q=%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%BB%E3%83%95%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%B3%E5%9F%BA%E9%87%91

補足:
『現実に残された問題点の数々』

バングラデシュを救うために企画されたコンサートにもかかわらず、チャリティ事業として事前に届出をしていなかったため、アメリカの国税当局からまず税金を払うようにと言われてしまった。

それでもコンサートの売上げは、25万ドルに及び、その売上げはバングラデシュ孤児救済基金としてユニセフ(国際児童救済基金)に寄附された。

アルバムも発売10日間で450万ドルの収益を挙げ、1,500万ドルを越える売上げがあったが、イギリスでも税務当局がアルバムや映画の収益をジョージの個人所得と見なし、税金の対象とされてしまった。


この企画が寄付を前提にしているので、税金を軽減するようジョージが必死に交渉するも実らず、結局ジョージは100万ポンドもの税金を払うはめになってしまった。

さらに追い討ちをかけるように、マネージメントを握っていたアラン・クラインが売上げを私的に使っていたことが判明してしまった。

このコンサートがどれだけの額を寄付できたのかとなると、1,000万ドル以上とも言われているのだが、本当のところはいまだによくわかっていないようである。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 8
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い 面白い
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
ジョージは『ロックは、戦争や原発を止め、社会をも変える事が出来る力だ』という幻想を抱かせてくれた。 ツグトヨのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる